
☆大阪の巨大古墳群は、5世紀中国南朝に使節を送った「倭の五王」たちの時代に作られた
☆「倭の五王」は鉄で勢力拡大した鉄の王朝だった
☆鉄は朝鮮半島南部でしか採れず、半島では北の高句麗が南進、南の国々を圧迫していた
☆高句麗が半島南部まで進出すれば、倭国は戦略物資の鉄の入手が難しくなる
☆倭王・武は中国の王朝に上奏文を送り、高句麗を攻めるための官職授与を求めていた
☆半島情勢と戦略物資を巡るせめぎあいと巨大古墳建造の背景

☆日本の大和王権は、中国南朝の「宋」と外交関係を持ち倭国王に冊封された
☆中国の歴史書「宋書」倭国伝に記載されている
*倭の五王「讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)」
*約1世紀の間、宋に使者を派遣した事が記されている
☆「古事記」による天皇と照らし合わせ
(讃=仁徳or履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略の各天皇と推測)
*二人の王(讃と珍)と天皇の関係は、事実であるか疑わしい
*3人の王(済・興・武)天皇との関係は確実視されている
☆武の雄略天皇は、敵対する有力豪族たちを滅ぼし天皇の権力を強化させた
☆武の雄略天皇を最後に、宋への遣使は派遣されていない

☆「民の竈(かまど)」の故事で知られる人物で、仁徳天皇の治世は仁政であった
☆古事記では「聖皇」、日本書記では「聖帝」と称され、理想的な君主とされている
☆仁徳天皇は、倭の五王のうち「讃」(珍とも)といわれる人物
☆仁徳天皇が讃であれば、五世紀初頭の天皇
☆仁徳天皇陵は世界最大の墓として有名


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半島危機と倭の国王(ネットより画像引用)