Quantcast
Channel: 慶喜
Viewing all articles
Browse latest Browse all 13377

江戸の文化人(幕臣本多正信)

$
0
0
江戸時代の文化人

本多正信 ⇒大名、徳川家康の重臣、江戸幕府の老中、相模国玉縄藩主

本多正信の生誕
鷹匠として徳川家康に仕え、桶狭間の戦いで、膝に傷を負い足に障害
三河一向一揆が起こると、家康に敵対する、一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔
諸国を流浪した末、家康への帰参を嘆願し無事に徳川氏に帰参する








本田正信(ネットより引用)

本多正信表舞台へ
家康の旧武田領を併合により、武田家臣団の精鋭を取り込み甲斐・信濃の実際の統治を担当
家康が関東に移ると、相模国玉縄で1万石の大名となる
秀吉死去後、家康が覇権奪取を行なう過程で活躍
関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い遅参している

本多正信が初期幕政を牛耳る
家康が将軍職に就任するに際して、朝廷との交渉で尽力した
江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった
秀忠が第2代将軍になると、秀忠の顧問的立場として幕政を主導し秀忠付の年寄(老中)となる
家康の正信に対する信任はあつく大老にまで昇進

本多正信と徳川家康との関係
家康は正信を参謀として重用し「友」と呼ん
正信が何を言っているのか、第三者には理解できなくても、家康は理解できた
逸話として、本田正信の換言を、家康は「へつらう者が多く、彼の忠なる心が嬉しい」と述べた
それを聞いた正信は嬉し涙を流し、この事を後に嫡子の正純に知らせ家訓とした

加増を断る・嫡子への訓戒
権勢を振るった正信ですが、正信の領地は相模玉縄に1万石でした
子正純に「我の死後、汝は必ず増地を賜るだろうが、3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ」と
「3万石以上は受けてはならぬ、辞退しなければ、禍が必ず降り懸かる」と説いていた
子正純は、遺志に叛いて宇都宮15万石大封を得たために後に宇都宮城釣天井事件で失脚

Viewing all articles
Browse latest Browse all 13377

Trending Articles