孝謙天皇(阿部内新王⇒考謙天皇⇒考謙上皇⇒称徳天皇)
聖武天皇と光明皇后の間には、男子が育たず阿倍内親王(孝謙天皇)のみでした
阿部内新王は、2回天皇に就任し、道鏡を法王にして、親しい仲になったともいわれています
「英雄の選択」から
女帝考謙天皇(ネットより引用)
考謙天皇時代の治世
孝謙天皇は、皇太子道祖王を廃し、舎人親王を新たな皇太子としました
更迭劇には、孝謙天皇と藤原仲麻呂の意向が働きました
上皇時代の治世
光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇派と淳仁天皇(藤原仲麻呂)の関係は微妙になりました
孝謙上皇は、看病に当たった道鏡を寵愛するようになりました
道鏡や吉備真備の孝謙派と、淳仁天皇・藤原仲麻呂の勢力争いが水面下で続きました
孝謙上皇は、淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収しました
藤原仲麻呂は、太政官印を奪取して近江国に逃走しましたが、殺害されました
称徳天皇の治世
淳仁天皇の廃位で、孝謙上皇が、称徳天皇として皇位に復帰しました
道鏡を太政大臣禅師に任じ、称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立されました
称徳天皇は、西大寺の拡張や西隆寺の造営等、仏教重視の政策を推し進めました
「道鏡が皇位に就くべし」の宇佐八幡宮の託宣が有りました
和気清麻呂は、この託宣は虚偽であると、宇佐八幡宮で確認し報告しました
称徳天皇と道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介として左遷しました
称徳天皇の死と後継
称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともありませんでした
道鏡の権力は衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備に奪われました
藤原永手や藤原宿奈麻呂らにより、白壁王を推し、天皇となりました
聖武天皇と光明皇后の間には、男子が育たず阿倍内親王(孝謙天皇)のみでした
阿部内新王は、2回天皇に就任し、道鏡を法王にして、親しい仲になったともいわれています
「英雄の選択」から
女帝考謙天皇(ネットより引用)
考謙天皇時代の治世
孝謙天皇は、皇太子道祖王を廃し、舎人親王を新たな皇太子としました
更迭劇には、孝謙天皇と藤原仲麻呂の意向が働きました
上皇時代の治世
光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇派と淳仁天皇(藤原仲麻呂)の関係は微妙になりました
孝謙上皇は、看病に当たった道鏡を寵愛するようになりました
道鏡や吉備真備の孝謙派と、淳仁天皇・藤原仲麻呂の勢力争いが水面下で続きました
孝謙上皇は、淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収しました
藤原仲麻呂は、太政官印を奪取して近江国に逃走しましたが、殺害されました
称徳天皇の治世
淳仁天皇の廃位で、孝謙上皇が、称徳天皇として皇位に復帰しました
道鏡を太政大臣禅師に任じ、称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立されました
称徳天皇は、西大寺の拡張や西隆寺の造営等、仏教重視の政策を推し進めました
「道鏡が皇位に就くべし」の宇佐八幡宮の託宣が有りました
和気清麻呂は、この託宣は虚偽であると、宇佐八幡宮で確認し報告しました
称徳天皇と道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介として左遷しました
称徳天皇の死と後継
称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともありませんでした
道鏡の権力は衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備に奪われました
藤原永手や藤原宿奈麻呂らにより、白壁王を推し、天皇となりました