

☆関ヶ原の3年後に家康は征夷大将軍となる
☆豊臣の天下から徳川の天下になったことを意味するものではない
☆公家や大名の間では、家康の将軍就任と秀頼の関白就任が同時との噂が流れていた
☆天下統一は、秀頼の成人と家康の存命という時間との競争
☆家康は、秀頼が関白になっても、東国を確保できる手立てを講じた
☆東西分割論が成立しなかったか理由
*家康が長生きしすぎて欲が出てきた
*千姫に子供が産まれなかった
*家康と秀頼の二条城の会見での秀頼の成長
*この会談の直後に、加藤清正、浅野幸長、前田利長らが次々と死去

☆家康は、江戸が好きでなかった
☆江戸を関東の首府に決めたのは家康でなく秀吉
☆家康は、大規模な土木工事は趣味でもなければ得意でもなかった
☆関八州の主となってから駿府で死ぬまで江戸に滞在は5年間
☆2代将軍、秀忠は大坂にとって恩人
*秀忠は大坂城の本格再建を決め、伏見城を廃城にした
*徳川の西日本統治の中心を大坂、京都屋敷、朝廷の監視拠点は二条城に集約した
*秀忠の決定がなければ、大阪は小田原のような地方都市になっていた

☆家光は無能な人物で、強度の鬱で気まぐれ
☆女性に興味が持てず男色の世界にふけつて、全国の大名にも悪影響が甚だしかった
☆公家の息女が挨拶に来たのを見て女性に目覚め、彼女を側室にした
☆4代目家綱の時、何も変わらないのが理想という安定化路線が極地に達した
*病弱な家綱将軍を、井伊直孝や秀忠の隠し子会津藩主・保科正之らが支えた
*正之は水戸光囲、池田光政らと並ぶ「仁政」を行った名君との評価あるが?
*幕府を深刻な財政破綻に追い込んだのは、正之が推進した支離減裂なばらまき政策
☆5代目の綱古は徳川15代のなかでも最高の秀才で知的能力は高かった
*経済政策では、荻原重秀による貨幣改鋳が行われました
*側用人 柳沢古保がいて、綱吉の気まぐれに適当に付き合う
(軌道修正しながら29年にも及ぶ綱吉の治世を大過なく乗り切らせた)
*綱吉の時代には、信賞必罰といった赤穂浪士による討ち入り事件もあった
*儒教的な仁政への理想が暴走した「生類憐れみの令」等の悪評の政策もあるが
☆6代将軍家宣は平几な人物
*新井白石の思いこみの激しい政策を実行に移して混乱を招く 87
☆7代将軍家継は、就任後3年後に死亡

☆江戸時代には朱子学が国教的地位を占めるようになる
☆戦国時代までは禅僧が秘書、家庭教師、軍師などを兼ね、朱子学は禅宗的教養の一部
☆藤堂高虎が捕虜として連れてきた官僚より、李氏朝鮮流の朱子学が伝授された
*弟子の林羅山が家康に仕官
☆朱子学は、秩序が保たれることが主眼で、変化を嫌う
*身分は固定されたほうが良い
*男女はできるだけ接触せず女性が男性の領分に口出すべきでない
*それぞれの身分や性別に応じて社会から求められることをするべきだ
☆朱子学では、社会は停滞しますし、差別はひどくなる
☆被差別部落については、江戸時代以前にも賤民として扱われた人々はいた
*江戸時代になって固定化され、分かりやすく差別された

☆江戸幕府にとり「中興の祖」である8代将軍吉宗
☆紀伊藩の財政破綻を藩主として吉宗は改善した
☆吉宗は、将軍として紀州でしたことと同様政策をとる
*幕府領にとって猛烈なデフレ政策になる
*財政収入を確保するために、必死で米価維持対策を展開する
*幕府領の税収確保のために新田開発を盛んにする
*米ばかりが安くなって、ほかの商品が高くなるのは当たり前
☆江戸時代中盤以降は人口3千万人で、米の生産は3千万石
*玄米換算で、子供から年寄りまで、 1日5合ずつ米を食べていた
*大量の玄米ごを、漬け物・味噌汁・小魚といった粗末な副食物で食べていた


☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します


