

☆信長、秀吉、家康の少年時代は、三好長慶の全盛期
☆鉄砲が伝来しザビエルがやってきて川中島の合戦が始まる
☆織田家は、平氏、津田氏のいずれもの立場を自由に使い分けていた
*両氏と縁戚関係
☆信秀が死んだ後の信長への継承は簡単に行かなかった
*信長が守護代の二家、弟の信行を減ぼし事により、尾張の主人と認められた
*信長は、全国的にも若手のホープとみられるようになった
☆今川義元は、信長が強大になる前に先手を打ったのが桶狭間の戦い
*緒戦の勝利で気が緩み、そこへ織田軍が襲いかかり、義元は討ち死にした
☆信長は、足利義昭を迎え入れて上洛
☆信長に面子を丸つぶしにされた義昭、武田信玄などに上洛要請を出した
*武田家は甲斐の守護でしたが、信玄は人生の大半を信濃制圧に費やしました
*信玄は、死の半年前突然、義昭の要請で信長と対決する気になった
*信玄の死を知らずに、義昭は宇治の槙島城に籠ったが、援軍は来ず降伏した
☆明智光秀の謀反の動機
*光秀は、信長に仕えていてもいずれは失脚すると心配になる
*光秀の失敗の要因は、秀吉の中国地方からの反攻が早かったのがすべての誤算

☆織田政権から豊臣政権への移行
*オーナー一族でないサラリーマン専務が社長になったこと
*本能寺の変で、信長会長と信忠社長が死んでしまい、社長の息子の三法師は幼児
*家督は三法師が継ぎましたが、会社の社長は空席
*信雄と信孝がそれぞれ秀吉と勝家を後ろ盾に争い、信雄・秀吉組が勝った賤ヶ岳の戦い
*その後、信雄は徳川家康と組んで秀吉と戦い、戦況では有利でしたが副社長で我慢する
☆豊臣政権で、ナンバーツーは織田信雄、家康がナンバースリー
*秀長が権大納言、秀次が中納言、宇喜多、上杉、毛利が参議で続く
☆秀吉が家康を厚遇せざるを得なかった理由
*九州での島津の躍進で、関東迄手が回らなかった
*関東は徳川家康にまかせ、東北は蒲生氏郷を抜擢して仕切らせた

☆秀吉は、武力に訴えて東アジア諸国間貿易の拡大を実現しようした
*東アジア情勢の時代背景からすると正しかった
*アジア諸国民の利益にとって不可欠でした
*ヨーロッパ人が貿易利益を独占するのを放置することも良くない
☆秀吉の失敗は、軍事作戦が稚拙だった
*イギリスはスペインに対抗するために、海軍力を充実&海賊(倭寇)の行動を援助した
☆秀吉は、本質的に陸軍軍人で、倭寇を活用するかわりに弾圧した

☆関ヶ原の戦いは、家康の長寿と健康、前田利長の重大ミスが運命を分けた
☆秀次事件のあと秀吉は家康と前田利家に秀頼の将来を託した
*利家が圧倒的に有利な状況で事態は展開していた
*家康より、利家が先に死んでしまう
*利家が生きていれば、家康のほうが失脚させられていた
☆利家が死ぬと、加藤清正らが石円三成を誅するとして騒ぎを起こした
*三成は大坂から逃げ、家康は三成を蟄居させる裁定をした
*家康は、清正らの反乱軍を討つべき立場なのに、逆に被害者の三成を蟄居させた
☆利家の後任利長は、加賀に一時帰国する
*家康はこの機を見逃さず、利長に謀反の疑いありとして動きを封じる
*隠居していた利長は、関ヶ原の戦いの後、自殺かそれ同然の死を遂げる
☆帰国して墓穴を掘ったのは上杉景勝も同様
☆毛利氏は、家康と差がない200万石ほどの力を持っていた
☆関ヶ原の戦いは西軍2・3位連合で、毛利も上杉も全てをかけた勝負を避けた
*毛利の総大将輝元は、関ヶ原に出撃せず
*輝元は、領地を安堵するという甘い嘘に騙され、戦わずに大坂城を明け渡した


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