
☆島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝
☆16歳で家督を継ぎ、永井青崖に蘭学を学んで私塾「氷解塾」を開く
☆安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所
☆咸臨丸で渡米し、軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設
☆戊辰戦争時に幕府軍の軍事総裁となり、早期停戦&江戸城無血開城を主張し実現
☆明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し伯爵に叙せられた

☆海舟は幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指す
☆保守派から睨まれ、軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る

☆戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まる
☆幕府の要職を罷免された海舟は、老中板倉により、最後の陸軍総裁に起用される
☆徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免する
☆海舟は、海軍奉行、徳川家の家職である陸軍総裁に昇進
☆海舟は、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿い、フランスとの関係を清算し朝廷との交渉に向かう
☆海舟は、官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張
☆海舟は、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった
☆イギリスが支援する新政府とフランスが支援する旧幕府で国内が2分されるのを懸念した

☆明治維新後も海舟は旧幕臣の代表格要職を歴任
(外務、兵部、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された)
☆明治政府への仕官に気が進まず、役職を辞退したり、短期間で辞職していた
☆大日本帝国憲法制定時の枢密院審議では、顧問官として終始一貫沈黙していた
☆政府に対しては不満はあったが、提出した意見書は説教に止まり
☆政治的安定を願う海舟には体制批判は見られない

☆海舟は、存在自体を慶喜に疎まれていた
☆海舟は、慶喜を明治政府に赦免させることに30年の間尽力した
☆慶喜は謹慎解除され、明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵
☆海舟は長男小鹿を失い、慶喜に末子精を勝家の養嗣子に迎えた
☆小鹿の娘伊代を精と結婚させ慶喜と和解した

☆ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごす
☆晩年は子供たちの不幸にも悩み続けるなど、孤独な生活だった
☆風呂上がりに、脳溢血により意識不明となり息を引き取った


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勝海舟(山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる)
(テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」テレビ画面より画像引用)