

☆画風をさまざまに変えながら中央画壇を駆け上がっていった
☆秀吉の子の菩提寺智積院の障壁画を息子久蔵らと制作
☆秀吉の期待に応える大作に仕上げ、狩野派と並ぶ長谷川派の地位を築く
☆60歳代で法橋、法眼に叙せられ、絵師としては最高の身分についた
☆狩野派と親しくなかった利休とともに狩野派を謗った

☆能登(石川県)七尾城主の家臣の家に生まれる
☆30歳のころに上洛し、狩野永徳の絵画様式に触れる
☆水墨画にも影響を受けた


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長谷川等伯(『「技」の巨匠100人』記事より画像引用)