

☆島津義弘は、家康の指示で伏見城守備の分担だった
☆伏見城に入ろうとしたが、守将鳥居(三河武士)はこれを拒む
☆守将鳥居より、攻撃を仕掛けられ義弘は、やむ終えず西軍に加わった
☆義弘の軍は、戦場に取り残されその為、戦場からの脱出を計った
☆敵中を突破し激闘の末脱出、死中に活の作戦で、敵本隊を強行突破だった

☆家康は島津氏を武力で討伐する方針を固めていた
☆九州の全大名に命じ兵を総動員して肥後水俣に進軍
☆島津軍も兵を総動員し、薩摩・肥後国境において一触即発の雰囲気となる

☆家康は義弘上洛の上で謝罪することを迫る
☆島津義久本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとして拒否
☆二年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる
☆薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定されました


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島津藩の領地は安堵された!(NHK番組(英雄たちの選択)より画像引用)