

☆朝廷は経済の基盤を失い、伝統的な宮中行事ができなくなっていた
☆権力復興のため、宮中行事や制度を復活させる動きが、後水尾天皇の頃から起きていた
☆後水尾天皇は、皇子の立太子礼が行ない、300年中断していた皇太子の称号を復活

☆東山天皇は、長らく廃絶していた大嘗祭の儀式を復興した
☆綱吉は、尊皇思想が強く朝廷を厚過した(皇室領を1万石から3万石に加増)
☆息子徳川家宣に、摂関家の当主の娘迎えるなど、朝廷と幕府の関係は安定していた

☆代表的な一件が「学習院」の誕生
☆朝廷には平安時代末期に、大学寮が焼けて以来教育機関が存在しなかった
☆光格天皇は、大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想
☆次代の孝明天皇は、その父の遺志を継いで学問所の設置を幕府へ打診
☆教育を奨励していた幕府側も異を唱えず、それが承認された

☆漢学や和学、および尊皇教育が施された
☆幕末には、尊王攘夷派の公家や志士たちの集会所として利用された
☆幕府が許可した学問所で倒幕の密議が行なわれるという現象を生んだ


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朝廷と江戸幕府(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)