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Channel: 慶喜
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秀吉の妻「ねね(北政所)(高台院)」の生涯

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高台院(豊臣秀吉の正室)

20歳で結婚、下級武士から天下人の妻へ!
秀吉と「ねね」が、初めて城を持った長浜城
 ☆「ねね」は、領国の経営や家臣の統括で能力を発揮しました
 ☆秀吉は、全国への戦いで大半を戦場ですごしていた
秀吉に初めての子が誕生(秀吉は京で妾を取り、石松丸が誕生)
 ☆琵琶湖に浮かぶ島の寺の古文書に、その子の名「石松丸」があります
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・画像・番組等で確認ください
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)










ねね(高島礼子・日本の古都テレビ画面画像引用)

「ねね」秀吉との結婚&長浜時代
実母・朝日の反対を押し切って秀吉に嫁ぐ
ふたりの間には子供が出来ませんでした
 ☆加藤清正や福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育しました
秀吉は、長浜12万石の主となる
 ☆秀吉、遠征で長浜を空けることの多く、「ねね」は城主代行のような立場でした
「ねね」は、本能寺の変の時長浜城におり、明智が攻めてきたので、大吉寺に避難をしている

「ねね」の北政所時代
秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される
天下人の妻として、北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けた
人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った
大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要でした

「ねね」の関ヶ原の戦い(秀吉没後)時代
淀殿と連携して、豊臣秀頼の後見にあたった
 ☆「ねね」は、大坂城を退去し、京都新城へ移住した
関ヶ原の戦い前の北政所の立場は微妙
 ☆京都新城は、櫓や塀を破却するなど縮小された
関ヶ原合戦後も、京都新城跡の屋敷に住む
 ☆豊国神社に参詣するなど秀吉の供養に専心した
合戦後も養老料として徳川家康から約2万石安堵されている

「ねね」高台院時代
養母の死と、秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾
朝廷から院号を賜り、高台院快陽心尼(湖月心尼)と称した
実母と秀吉の冥福を祈るために、家康の後援のもと、京都東山に高台寺を建立
大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向
 ☆甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられた
大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう

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