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尼子氏(出雲を拠点とした戦国大名の一族)
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南北朝時代の大名佐々木高氏は(近江国尼子郷)に居住し名字を尼子と称したのに始まる
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戦国時代に、戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方N3の勢力となる
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尼子晴久の急死で毛利氏に敗れる
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毛利家の意向により、尼子氏は代々系譜し存続する
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1940年最後の当主が、高輪の毛利家別邸で亡くなり、尼子高久から続いた尼子氏は断絶した
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山口県を旅行し西国大名の知識不足痛感しました
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尼子氏(ネットより引用)
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尼子氏
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家紋 四つ目結
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本姓 宇多源氏京極支流
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家祖 尼子高久
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種別 武家
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尼子氏出自
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宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる
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南北朝時代の大名佐々木高氏(近江国尼子郷)の居住地を名字を尼子と称したのに始まる
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室町時代に出雲と隠岐の守護代を通して次第に実力を蓄えていった
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応仁の乱では東軍に属している
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尼子氏戦国大名へ
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尼子氏守護職である京極政経により、地位を剥奪され月山富田城を追われた
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尼子氏月山富田城を奪い返し、京極氏に代わって出雲の支配権を奪取して戦国大名となる
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前将軍・足利義尹を戴き、大内義興が中国・九州勢を率いて上洛すると、尼子経久は従い上洛する
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守護代から成り上がった経久であるが、山陰を中心に勢力拡大に励んだ
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尼子氏山陰・山陽八ヶ国の領有
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尼子経久は家督を孫の晴久に譲る
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晴久の時代には、山陰・山陽八ヶ国の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた
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晴久は、安芸へ侵攻し毛利氏の本拠地・吉田郡山城を攻めるが攻略できず兵を撤収する
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大内軍が毛利氏らと、2万の兵で尼子氏(出雲)に出兵してくる
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月山富田城は攻囲されるが、大内軍の補給線と防衛線をゲリラ戦術で分断し敗走させた
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尼子氏滅亡
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大内氏の内紛後の混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にした
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石見銀山を巡る戦いでは、優勢であったが、尼子晴久が急死する
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晴久の急死で、毛利元就は出雲侵攻を本格化させた
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尼子氏は、月山富田城に籠城し、防衛網で毛利軍を迎え撃った
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毛利軍、月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込んだ
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尼子義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した
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織田信長の援助一時は城を得て尼子氏を再興したが、播磨上月城を毛利軍に落とされ尼子氏は完全に滅亡した
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尼子氏末裔
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尼子義久とその兄弟は、毛利氏に降った後、安芸で配流生活を送り、子孫は長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいる
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義久の死後、毛利家の意向により、養子の尼子元知が尼子氏を継ぎ、尼子氏は代々系譜し存続する
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1940年最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は断絶した