久坂玄瑞(長州藩での尊王攘夷派の中心人物)人物評
吉田松陰評 ⇒防長に於ける年少第一流の人物で、無論天下の英才だ
久木戸孝允評⇒時の急務を知ることは俊傑の天に負う責であり、大義を堅持することは剛者にして初めて可能
玄端の書状で坂本龍馬脱藩
☆「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」
☆「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
☆「草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き」とは吉田松陰の唱えた「草莽崛起論」が基
久坂の言葉「我が胸にあるもの、病人を治すのでなく、日本を治すことにあり」
NHK英雄達の決断より
久坂玄端(ネットより引用)
久坂玄瑞生誕から松下村塾入門まで
萩藩医・久坂の三男秀三郎として生まれる
藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた
熊本に、宮部を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた
松陰は「久坂の士気は平凡ではなく、何とか大成させようと思う」と宮部に述べている
松下村塾では、高杉晋作と共に「村塾の双璧」といわれた
松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた
尊王攘夷運動
安政の大獄によって松陰が刑死した
玄瑞は、長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となる
玄瑞は、長井の「公武合体、攘夷論」に反対で、同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出
桂小五郎らも、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主に攘夷を力説し長井の失脚に成功した
英国公使館焼き討ち
久坂は、高杉と外国人襲撃を画策する
玄瑞・高杉、長州藩志士は、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した
下関戦争と光明寺党、奇兵隊
佐久間象山の助言により、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した
朝廷の攘夷決定にもかかわらず、幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司へ建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた
これにより、朝廷の指導権は、長州が握ることとなった
幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めた
攘夷実行で起きた、京都政界の急変に対応するため、新しい隊(光明党)を結成した
長州藩では、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦二隻が撃沈、民家等が焼かれた
藩は、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、高杉は奇兵隊総管となった
禁門の変(蛤御門の変)に至るまで
長州藩は朝廷に攘夷御親征の建白書を提出し、長州派公卿の尽力により、「大和行幸、御親征」の詔勅が発せられた
幕府は長州の独断攘夷を問題視し、長州藩をはじめとした急進尊攘派の動きを封ずる挙に出た
幕府により、攘夷親征の延期、長州派公卿の更迭が行われ、長州藩は、宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りを禁じられた
このクーデターの背後には、孝明天皇の「攘夷は希望するが、倒幕には反対する」という考えがあった
長州にて、池田屋事件の報が伝わると、久坂は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した
久坂は、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷に奉った
幕府は、諸藩に令を下し、京都出兵を促した
禁門の変(京都の町はどんどん焼き)
長州出兵組みは、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれた
玄瑞は、「少なくても必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つ」と述べ、来島の進撃論と対立した
参謀格の真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した
諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数3万、長州藩は2千の兵力で戦いを挑む
蛤御門を攻めた来島は、会津藩隊と交戦したが、来島が狙撃され負傷すると長州軍は総崩れとなった
玄瑞は、鷹司に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町御門を攻めた
鷹司邸に入った玄瑞は、嘆願をさせて欲しいと要請したが、輔煕はこれを拒絶、玄瑞を振り切り邸から脱出した
鷹司邸は既に炎上し始めていたため、玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した、享年25歳
久坂玄瑞の子孫
妻の姉との間の次男粂次郎を養子として、玄瑞の死後は粂次郎が久坂家を継いだ
玄瑞は京都で、芸妓との間に子をもうけており、玄瑞の死後に生まれていた
この遺児が久坂家を継ぎ、玄瑞の肖像画は、この子をモデルに描かれている
吉田松陰評 ⇒防長に於ける年少第一流の人物で、無論天下の英才だ
久木戸孝允評⇒時の急務を知ることは俊傑の天に負う責であり、大義を堅持することは剛者にして初めて可能
玄端の書状で坂本龍馬脱藩
☆「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」
☆「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
☆「草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き」とは吉田松陰の唱えた「草莽崛起論」が基
久坂の言葉「我が胸にあるもの、病人を治すのでなく、日本を治すことにあり」
NHK英雄達の決断より
久坂玄端(ネットより引用)
久坂玄瑞生誕から松下村塾入門まで
萩藩医・久坂の三男秀三郎として生まれる
藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた
熊本に、宮部を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた
松陰は「久坂の士気は平凡ではなく、何とか大成させようと思う」と宮部に述べている
松下村塾では、高杉晋作と共に「村塾の双璧」といわれた
松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた
尊王攘夷運動
安政の大獄によって松陰が刑死した
玄瑞は、長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となる
玄瑞は、長井の「公武合体、攘夷論」に反対で、同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出
桂小五郎らも、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主に攘夷を力説し長井の失脚に成功した
英国公使館焼き討ち
久坂は、高杉と外国人襲撃を画策する
玄瑞・高杉、長州藩志士は、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した
下関戦争と光明寺党、奇兵隊
佐久間象山の助言により、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した
朝廷の攘夷決定にもかかわらず、幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司へ建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた
これにより、朝廷の指導権は、長州が握ることとなった
幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めた
攘夷実行で起きた、京都政界の急変に対応するため、新しい隊(光明党)を結成した
長州藩では、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦二隻が撃沈、民家等が焼かれた
藩は、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、高杉は奇兵隊総管となった
禁門の変(蛤御門の変)に至るまで
長州藩は朝廷に攘夷御親征の建白書を提出し、長州派公卿の尽力により、「大和行幸、御親征」の詔勅が発せられた
幕府は長州の独断攘夷を問題視し、長州藩をはじめとした急進尊攘派の動きを封ずる挙に出た
幕府により、攘夷親征の延期、長州派公卿の更迭が行われ、長州藩は、宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りを禁じられた
このクーデターの背後には、孝明天皇の「攘夷は希望するが、倒幕には反対する」という考えがあった
長州にて、池田屋事件の報が伝わると、久坂は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した
久坂は、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷に奉った
幕府は、諸藩に令を下し、京都出兵を促した
禁門の変(京都の町はどんどん焼き)
長州出兵組みは、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれた
玄瑞は、「少なくても必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つ」と述べ、来島の進撃論と対立した
参謀格の真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した
諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数3万、長州藩は2千の兵力で戦いを挑む
蛤御門を攻めた来島は、会津藩隊と交戦したが、来島が狙撃され負傷すると長州軍は総崩れとなった
玄瑞は、鷹司に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町御門を攻めた
鷹司邸に入った玄瑞は、嘆願をさせて欲しいと要請したが、輔煕はこれを拒絶、玄瑞を振り切り邸から脱出した
鷹司邸は既に炎上し始めていたため、玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した、享年25歳
久坂玄瑞の子孫
妻の姉との間の次男粂次郎を養子として、玄瑞の死後は粂次郎が久坂家を継いだ
玄瑞は京都で、芸妓との間に子をもうけており、玄瑞の死後に生まれていた
この遺児が久坂家を継ぎ、玄瑞の肖像画は、この子をモデルに描かれている