皇居の公園に銅像の有る『楠木正成公』さん
何故?
鎌倉幕府の執権北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々を過ごしていました
後醍醐天皇は、京都で挙兵し、楠木正成は駆けつけました
楠木正成(引用)
楠木正成
天皇に謁見し「関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません、策略が必要」と進言しました
正成は、山城・赤坂城を拠点に挙兵し、攻めて来た幕府の大軍は、少ない正成軍の土石流作戦の奇策に翻弄されました
幕府軍は、兵糧攻め作戦を実施し、正成軍は食糧が尽き、正成は城に火を放ち、脱出し行方をくらましました
赤坂城の攻防戦から1年、正成再挙兵し天王寺を攻め落としました
幕府最強の先鋭部隊は、正成の拠点天王寺を容易に奪回占領しました(正成の作戦)
天王寺は“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える状況になりました
幕府兵は、敗北し天王寺から撤退した
幕府は、正成征伐に、8万騎の大征伐軍を差し向けました
正成は、千人の兵と千早城に篭城、赤坂城と同様の作戦、兵糧攻めを実施しました
包囲した幕府軍は、8万の大軍なので、逆に食料補充できず、餓死し撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになりました
8万の幕府軍が、千人の正成軍に敗北した事実は、諸国へと伝わりました
「幕府軍、恐れるに足らず」
幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきました
足利尊氏は、京都の幕府軍を倒し、新田義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取りました
正成が、千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させました
後醍醐天皇は、朝廷政治を復活させ、新政をスタートしました
天皇主導の下で、戦のない世の中を築こうと考え、独裁の政治をを実施しました
武家勢力を弱める&早急に財政基盤を強固策、武士、庶民に重い年貢や労役を課しました
後醍醐天皇施策へ、武士・民衆の反発
足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵し京都へ攻め上りました
足利尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃ち、尊氏軍は大敗し九州へと敗走しました
足利尊氏が、再整備し大軍を率いて九州から北上しました
湊川で両軍は激突しましたが、尊氏軍の戦力は、正成軍より数段と多く、正成軍は敗北しました
尊氏は、正成を「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と評していました
室町幕府は、北朝幕府正当性より、正成を『逆賊』としました
死後300年正成の死は、汚名を着せられていました
正成の湊川の墓を、徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立しました
光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めました>
何故?
鎌倉幕府の執権北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々を過ごしていました
後醍醐天皇は、京都で挙兵し、楠木正成は駆けつけました
楠木正成(引用)
楠木正成
天皇に謁見し「関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません、策略が必要」と進言しました
正成は、山城・赤坂城を拠点に挙兵し、攻めて来た幕府の大軍は、少ない正成軍の土石流作戦の奇策に翻弄されました
幕府軍は、兵糧攻め作戦を実施し、正成軍は食糧が尽き、正成は城に火を放ち、脱出し行方をくらましました
赤坂城の攻防戦から1年、正成再挙兵し天王寺を攻め落としました
幕府最強の先鋭部隊は、正成の拠点天王寺を容易に奪回占領しました(正成の作戦)
天王寺は“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える状況になりました
幕府兵は、敗北し天王寺から撤退した
幕府は、正成征伐に、8万騎の大征伐軍を差し向けました
正成は、千人の兵と千早城に篭城、赤坂城と同様の作戦、兵糧攻めを実施しました
包囲した幕府軍は、8万の大軍なので、逆に食料補充できず、餓死し撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになりました
8万の幕府軍が、千人の正成軍に敗北した事実は、諸国へと伝わりました
「幕府軍、恐れるに足らず」
幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきました
足利尊氏は、京都の幕府軍を倒し、新田義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取りました
正成が、千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させました
後醍醐天皇は、朝廷政治を復活させ、新政をスタートしました
天皇主導の下で、戦のない世の中を築こうと考え、独裁の政治をを実施しました
武家勢力を弱める&早急に財政基盤を強固策、武士、庶民に重い年貢や労役を課しました
後醍醐天皇施策へ、武士・民衆の反発
足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵し京都へ攻め上りました
足利尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃ち、尊氏軍は大敗し九州へと敗走しました
足利尊氏が、再整備し大軍を率いて九州から北上しました
湊川で両軍は激突しましたが、尊氏軍の戦力は、正成軍より数段と多く、正成軍は敗北しました
尊氏は、正成を「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と評していました
室町幕府は、北朝幕府正当性より、正成を『逆賊』としました
死後300年正成の死は、汚名を着せられていました
正成の湊川の墓を、徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立しました
光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めました>