
☆鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発
☆本来、白虎隊は予備兵力(隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、340名程度)
☆会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった
☆会津藩の装備は、新政府軍の装備に対して著しく劣っていた
☆会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開
☆本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊
(主力部隊を支援する形で前線への各防衛拠点へと投入された)

☆一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たった
☆二番隊(20名)は戸ノ口原の戦い他で、戦死者を多く出し敗走
☆負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた
☆飯盛山へ落ち延びたのは、20名中6名
(残り14名は、逃げるときの戦いで死亡又は負傷)
☆飯盛山から見た市中火災を若松城が落城と誤認し6名が自刃
(飯沼貞吉は、一命を取り留めたので、白虎隊19名が死亡した)
☆実際に城は落ちておらず、籠城戦は1ヶ月続いが会津藩は降伏した

☆電信技士として維新後を生き抜き、79歳で没した。
☆飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だった
☆「士中二番隊」の隊士酒井峰冶の手記が近年発見された
☆飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された
(飯盛山の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)


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会津藩白虎隊の運命(BSTBS『諸説あり』テレビ画面より画像引用)