![]()
武田信玄( 武田晴信)道散策
![]()
BS11で、『武田信玄』の2時間番組有りましたので、興味深く視聴しました
![]()
信玄の出家し「玄」の字は中国では臨済義玄の「玄」よりとり、信玄と付けたのは妙心寺派の岐秀元伯です
![]()
上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いで、信玄は信濃を領国化しました
![]()
「風林火山」の軍旗を用い、無敵の騎馬軍団を率い領土拡大しましたが、西上作戦の途上信濃で病没しました
![]()
武田信玄(引用)
![]()
岐秀元伯(武田信玄幼少時の教育)
![]()
京都妙心寺の学僧で、信玄の母親の招き長禅寺の住職となりました
![]()
信玄の思想、考え方は、岐秀の影響を多く受けております
![]()
信玄は、長善寺を甲府に移し、岐秀を開山としました
![]()
快川紹喜(武田信玄成人時の教育)
![]()
信玄は、恵林寺を保護し、菩提寺と定め、快川紹喜を招きました
![]()
信玄の戦術、「孫子の旗」等も快川の影響を受けています
![]()
信玄の葬儀や、7回忌の仏事には快川が大導師を勤めています
![]()
武田氏が滅亡した後に、残党武士が恵林寺に逃げ込み、その為織田軍勢に焼き討ちに会いました
![]()
快川紹喜は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」発し焼死しました
《どんな苦しみにあっても、心の持ち方ひとつで、その苦しみをしのぐことができる》
![]()
武田信玄の出生から甲斐継承
![]()
父信虎は、甲斐統一し、家臣団組織を整備し戦国大名としての地位を確立しました
![]()
信虎の戦争に従軍しましたが、父信虎の寵愛は次男に移りました
![]()
信玄は、重臣らと共に父信虎の駿河追放を行ない、武田家の家督を相続しました
![]()
戦国時代の甲信周辺の拡大
![]()
信玄は、家督を相続すると父の路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行いました
![]()
諏訪領への侵攻し、諏訪領を制圧しましたが、砥石城で信玄は大敗を喫しました
![]()
その後、部下真田の策略で砥石城は落城し、北信を除き信玄は信濃を平定しました
![]()
信玄の上杉謙信との戦い
![]()
上杉謙信は、信濃出兵を開始し、以後善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となりました(川中島の戦い)
![]()
北関東で謙信と抗争の間、北条氏と軍事同盟を結び、謙信の圧力に有効に機能させました
![]()
川中島合戦和睦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しました
![]()
信玄の外交方針転換で今川・北条との戦い
![]()
北条領国へ圧力を加え、三増峠の戦いで北条勢を撃退しました
![]()
将軍足利義昭は、織田信長を滅ぼすべく、信玄や他の大名に信長討伐の御内書を発送しました
![]()
信玄信長の盟友である徳川家康を討つべく、三河侵攻を行いました
![]()
信玄は、西上作戦途上で喀血し、武田軍は進撃を停止、撤退途上三河街道上で死去しました