

☆秀吉から関白職を譲られるほど寵愛されていが秀吉と対立する
☆秀吉に男児が生まれず、秀次は秀吉の養子に入り可愛がられていた

☆四国征伐の活躍により43万石を加増される
☆小田原征伐では、先鋒を務めたことが評価され、尾張一国100万石を手に入れた

☆正親町上皇の喪中にもかかわらず鹿狩りを行った
(鹿狩りで民衆の反感を買い「殺生関白」と名付けられた)
☆女人禁制の比叡山に女性を連れて登る
☆比叡山が、殺生禁断の聖地にもかかわらず鹿狩りを行う
☆北野天神に参詣した際に、座頭と喧嘩になり、座頭をなぶり殺しにした
☆鉄砲や弓の稽古の際には、田畑にいる農民を標的にして殺害
☆試し斬りと称し罪人や一般人などを鬼畜のごとく斬り殺した

☆反乱計画を企てたことが秀吉の怒りを買い、高野山で切腹させられた
☆秀次の正室、側室や子女30人余りも京都の三条河原で処刑
☆秀次の首とともに埋められたその場所は、「畜生塚」と呼ばれた


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横暴者・狼藉を行つた者(豊臣秀次)(『日本史”悪役”100人』記事より画像引用)