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足利義満と金閣寺

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父と子、祖父と孫、愛憎の歴史物語が! 「金閣寺」の誕生の謎

金閣を作った三代将軍足利義満は、足利幕府の絶頂期を作り上げた人物です
義満は、北山御殿(金閣寺)に天皇を招き10日間の宴を実施
義満が人生の最後に築いた絶景…それが金閣寺です
北山御殿は、広大な邸宅ですが、完成後には、父と子、孫の代へと続く愛憎劇
足利義満氏死後は、足利幕府波乱の時代の幕開けでもありました
『BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組参考&引用
























『BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組画像他引用

足利義満と義満の死後
足利幕府最強の将軍足利義満には、20人の子供と16人の側室がおりました
義満は、長兄4代将軍義持を嫌い、弟を溺愛していました
義満(48歳)で急死後、弟は謀反の疑いで討たれました
将軍足利義持は、義満の実施していた明貿易中止、北山御殿の解体を実施しました
将軍義持も、後継者指名せず死亡した為、6代将軍義教はくじ引きで選ばれました
6代将軍義教は、強権政治を実施したので、赤松氏に討たれました
その後、応仁の乱をへて、悲運の8代将軍足利義政へと繋がります

足利氏出自
日本の武家のひとつの軍事貴族
家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲む
新田氏とは同祖の関係である

平安時代
源義康(足利義康)は鳥羽上皇の北面武士となり、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦う
その子義兼は、源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加
鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、御門葉として源氏将軍家の一門的地位にあった。
細川氏、斯波氏、渋川氏、一色氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、仁木氏、上野氏、戸崎氏などの庶流を分出

鎌倉時代
源氏将軍家滅亡後も、北条氏とは婚姻や偏諱を通じて良好な従属関係を維持してきた
幕府滅亡直前まで足利氏は、北条氏の信頼を受けていた
第7代当主の子、足利尊氏が足利氏第8代当主を継いだ
足利尊氏は、後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた
足利氏は、有力御家人にして、源氏の有力な一流とみなされるようになっていた
幕末の後醍醐天皇の挙兵に際して、足利氏の帰趨が大きな影響を与えた

足利氏と北条氏との関係
足利義兼は、北条政子の同母妹である北条時子を妻に迎えた
足利義氏は北条泰時の娘、泰氏は北条時氏の娘、頼氏は北条時盛の娘、家時は北条時茂の娘
足利氏の歴代当主は、北条氏の娘と姻戚関係を代々結んでいた
その子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった

南北朝時代
足利尊氏は、当初後醍醐天皇の建武の新政に参加し、光明天皇から征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を開いた
足利尊氏は庶流である諸氏を諸国の守護などの要職に任じている
南北朝の動乱下にあって、急激に力を持つに至った足利氏一族
宗家当主(尊氏・義詮)の意向に忠実とは言えず、宗家に対する反乱や南朝への離反などが相次いだ
室町幕府は常に存亡の危機に立たされた
足利尊氏の孫第3代将軍足利義満の時代になって南北朝合一を達成した

室町幕府の足利幕府経緯
足利義満は明徳の乱、応永の乱などで有力守護大名を挑発しては討伐してその勢力を削減
中国の明王朝から「日本国王」として冊封を受けて天皇に迫る権威を確立するなどした
足利義満が死去すると次第に将軍権力の弱体化、守護大名の台頭が顕著になって行く。
第6代将軍・足利義教は父・義満の政治路線を受け継いで将軍権力の強化を行なった
強硬的なやり方は周囲の反発を招き、暗殺され、将軍権力の衰退と権威の失墜が露呈する結果となった
第8代将軍・足利義政の時代には後継ぎ問題などをめぐって応仁の乱が発生
第10代将軍・足利義稙は管領の細川政元によって将軍職を追われた
第13代将軍・足利義輝暗殺後の3年間、室町幕府では将軍空位の時代が続き幕府は消滅している
足利義輝の実弟・足利義昭は、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍となった
将軍の義昭は信長と対立して京都を追放され室町幕府は終焉を迎えた

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