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歴史再考『真田幸村IN上田』
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歴史再考は、時代を築いた名将や偉人の足跡を、経済目線で見る番組です
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長野県・上田で真田幸村の歴史を再考します!
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博識のいとうせいこう氏が女性ガイドと各所に残るモノやエピソードから経済術を探っていきます
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BS11『せいこうの歴史再考』(私の好きな番組です)番組参考&引用
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真田幸村(BS11『せいこうの歴史再考』番組画面他引用)
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真田家は、10万石ほどの中小企業
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石高で100万石を超える織田信長や徳川家康の大企業が周囲を囲む
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下請けの中小企業の為、武田家、織田家、徳川家の下請け仕事を請け負う
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真田家の経営戦略
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強い大企業に付き従う(織田家、武田家、織田家、徳川家)他上杉家とも同盟を結ぶ
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緻密なアイデアと分析で成功を収め、上田に城を構え大名として領地を得る
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真田家は、地域の経営に貢献し、住民からの信頼も厚く、神社神として祭られている
☆真田の赤備え(強さをアッピールする、大企業に真田家を高く売れる)豊臣家より3億円の支度金
☆真田紐(茶道具の桐箱の紐・刀の下げ緒・鎧兜着用時の紐・帯締め・帯留用の紐・荷物紐等に使用する)
(特徴は伸びにくく丈夫なので重いものを吊ったり、しっかりと物を縛る事に使う)
☆真田紬(丈夫で価格も手軽な紬です、高級品としては大島・結城紬が有名です)
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真田信繁(幸村)概略
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安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、真田幸村の名で知られています
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江戸時代初期の大坂の陣で、豊臣方の武将として活躍した
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大坂夏の陣において3,500の兵を率いて、徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な武士
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諸大名家の各史料に記録されており、そこから軍記物、講談、草双紙などが創作された
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講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えての話が、庶民にも広く知られる存在となった
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「真田幸村」の真田家
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真田昌幸の次男として生まれた
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父の昌幸は、信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している
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長篠の戦いにおいて長兄、次兄が戦死し、昌幸が真田家を継いだ
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織田・徳川連合軍の侵攻で、武田氏は滅亡し、真田家は信長に恭順して信濃国の所領を安堵された
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本能寺の変で信長が横死すると、武田遺領は空白域化し、武田遺領を巡る争いが発生する
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昌幸、幸村は、徳川方に帰属し、信濃国衆の旧領が与えられた
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豊臣秀吉が台頭すると、昌幸は豊臣政権に帰属し、独立した大名として自立する
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「真田幸村」関ヶ原の合戦
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秀吉死後の、徳川家康が、五大老の一人会津の上杉景勝討伐の兵を起こす
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留守中、五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至る
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幸村は、西軍に加勢、妻のため東軍についた兄・信之と袂を分かつ
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石田三成率いる西軍は、関ヶ原で敗北を喫する
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昌幸と信繁は、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられた
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蟄居中に父・昌幸は死去、信繁は出家し、好白と名乗った
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「真田幸村」大坂入城
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方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する
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豊臣家は浪人を集める策を採り、幸村の元にも使者を派遣し約3億円での交渉
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幸村は、父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して大坂城に入った
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大坂で幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一した(真田の赤備え)
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「真田幸村」大坂冬の陣
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信繁は、大坂城籠城案に反対し、近江国瀬田で徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した
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大坂城への籠城策が決定すると、信繁は、大坂城の最弱部に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いた
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真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである
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戦闘では鉄砲隊を用いて、先鋒隊に打撃を与え、徳川勢は撤退した
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この戦闘で真田幸村は、その武名を天下に知らしめることとなる(真田丸の戦い)。
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冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際、取り壊されてしまった
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「真田幸村」大坂夏の陣
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大坂夏の陣では、道明寺の戦いに参加し、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた
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道明寺の戦いでは、先行した後藤隊が、真田隊が駆けつける前に壊滅し、後藤隊基次は討死していた
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幸村は、豊臣家の御運も尽きたかもしれないと嘆き、この場での討死を覚悟した
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毛利勝永は「ここで死んでも益はない、豊臣秀頼様の馬前で華々しく死のう」と幸村を慰留し退却した
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真田隊は、殿軍を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた
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幸村は、豊臣秀頼本人の直接の出陣あるのみと直訴したが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれた
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幸村は、己の死を覚悟し突撃隊として戦う、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った
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真田隊は、家康本陣に突入し、家康は自害を覚悟したほどだったという話も伝わる
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数度に渡る突撃戦で傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭に発見された
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「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた、享年49歳