武田勝頼(苦労人で家族思いの人物)
私の思っていた武田勝頼のイメージと全然違っていました
勝頼が妻に北条氏の娘むかえ、妻とその子供信勝とのストーリが中心でした
NHK歴史秘話ヒストリア番組を参考&引用
武田勝頼(ネットより引用)
武田勝頼とは
信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる
武田信玄の死により家督を相続する
長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことを契機に領国の動揺を招く
織田信長の本格的侵攻により、嫡男・信勝とともに天目山で自害
平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した
近年では新府城の発掘調査を契機に、勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている
出生から武田家世子へ
母は、信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人
武田氏の居城で、勝頼は誕生する
信玄が、諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があった
結果、武田家の象徴である信玄の「信」を勝頼だけには使われていなかった
武田家督相続
武田家の長男義信(自害)、次男(失明)、3男(死亡)その為跡継ぎとして勝頼が浮上
勝頼は、徳川方の遠江二俣城を攻落し、三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う
信玄が病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主(代行陣代)となる
織田・徳川の反攻「長篠の戦い」
徳川家康に寝返った奥平親子を討伐、奥平勢が善戦で、長篠城攻略に予想外の時間を費やす
織田信長・徳川家康の連合軍が長篠に到着し、武田軍は敗北し1万人以上もの死傷者を出した
長篠敗戦後の織田・徳川氏の反攻
長篠合戦以後、三河から武田方が締め出され、東美濃の岩村城も陥落
遠江国でも、家康により二俣城を奪還された
長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化
他国との同盟により、後北条氏との関係は険悪化する
後北条氏は徳川家康と徳川・北条同盟を結び、駿河において武田氏は挟撃を受ける事態に陥った
織田信長との関係は、長篠の戦い以降は小康状態が続いており、勝頼は信長との和睦を模索する
徳川・後北条氏との戦い(勝頼は東上野へ出陣)
新府城の築城と甲江和与の模索
勝頼は、新府城を築城し、甲府城下町からの本拠移転を開始した
後北条氏に対しては、佐竹義重を介して同盟を結んだ
織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まる
勝頼は信長との和睦交渉を試みたが、信長は勝頼との和睦を黙殺
武田家の部下の造反
信玄の娘婿木曾義昌が、新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る
勝頼は外戚の木曾の反逆に激怒し、木曾討伐の軍勢を送り出したが木曾軍に翻弄された
織田信忠が伊奈方面、徳川家康が駿河国から、北条氏直が伊豆国から武田領に侵攻してくる
勝頼にとって間の悪いことに、織田軍の侵攻の始まった時、浅間山が噴火した[
浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられていた
これらの侵攻に対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった
武田一族の重鎮も勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った
これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する
勝頼の死と武田氏滅亡
勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した
勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとした
小山田は織田信長に投降することに方針
逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した
嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)、享年37
450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡
辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」
私の思っていた武田勝頼のイメージと全然違っていました
勝頼が妻に北条氏の娘むかえ、妻とその子供信勝とのストーリが中心でした
NHK歴史秘話ヒストリア番組を参考&引用
武田勝頼(ネットより引用)
武田勝頼とは
信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる
武田信玄の死により家督を相続する
長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことを契機に領国の動揺を招く
織田信長の本格的侵攻により、嫡男・信勝とともに天目山で自害
平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した
近年では新府城の発掘調査を契機に、勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている
出生から武田家世子へ
母は、信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人
武田氏の居城で、勝頼は誕生する
信玄が、諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があった
結果、武田家の象徴である信玄の「信」を勝頼だけには使われていなかった
武田家督相続
武田家の長男義信(自害)、次男(失明)、3男(死亡)その為跡継ぎとして勝頼が浮上
勝頼は、徳川方の遠江二俣城を攻落し、三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う
信玄が病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主(代行陣代)となる
織田・徳川の反攻「長篠の戦い」
徳川家康に寝返った奥平親子を討伐、奥平勢が善戦で、長篠城攻略に予想外の時間を費やす
織田信長・徳川家康の連合軍が長篠に到着し、武田軍は敗北し1万人以上もの死傷者を出した
長篠敗戦後の織田・徳川氏の反攻
長篠合戦以後、三河から武田方が締め出され、東美濃の岩村城も陥落
遠江国でも、家康により二俣城を奪還された
長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化
他国との同盟により、後北条氏との関係は険悪化する
後北条氏は徳川家康と徳川・北条同盟を結び、駿河において武田氏は挟撃を受ける事態に陥った
織田信長との関係は、長篠の戦い以降は小康状態が続いており、勝頼は信長との和睦を模索する
徳川・後北条氏との戦い(勝頼は東上野へ出陣)
新府城の築城と甲江和与の模索
勝頼は、新府城を築城し、甲府城下町からの本拠移転を開始した
後北条氏に対しては、佐竹義重を介して同盟を結んだ
織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まる
勝頼は信長との和睦交渉を試みたが、信長は勝頼との和睦を黙殺
武田家の部下の造反
信玄の娘婿木曾義昌が、新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る
勝頼は外戚の木曾の反逆に激怒し、木曾討伐の軍勢を送り出したが木曾軍に翻弄された
織田信忠が伊奈方面、徳川家康が駿河国から、北条氏直が伊豆国から武田領に侵攻してくる
勝頼にとって間の悪いことに、織田軍の侵攻の始まった時、浅間山が噴火した[
浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられていた
これらの侵攻に対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった
武田一族の重鎮も勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った
これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する
勝頼の死と武田氏滅亡
勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した
勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとした
小山田は織田信長に投降することに方針
逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した
嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)、享年37
450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡
辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」