Quantcast
Channel: 慶喜
Viewing all articles
Browse latest Browse all 13377

二宮尊徳(金次郎)像

$
0
0
二宮尊徳(金次郎)(江戸時代後期の農業学者&思想家)

明治政府創立以後、薪を背負い読書する『金次郎』像が多く建てられた、
薪を背負いながら本を読んで歩く姿は、1881年の『報徳記』が初出です
肖像画のルーツは中国の「朱買臣図」にあり、狩野派末裔の永興もこれを参考にした
NHK『知恵泉』を参考&引用






二宮尊徳像(ネットより引用)

「金治郎像」建立の目的
自主的に国家に献身・奉公する国民の育成するのを目的としました
政治利用は、山縣有朋を中心に行われ、特に平田東助らによる指導が大きかった
国家の政策論理に同調する、石材業者らの営業活動で広まった

二宮尊徳(家を再興させる迄)
栃木県百姓・利右衛門の長男(金次郎)として生まれる
子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、病弱の父を助けた
油代必要なので、荒地に菜種をまいて、菜種油と交換し勉学を続けた
父・利右衛門が死去、母も亡くなり、尊徳は伯父の家に身を寄せた
尊徳は、荒地を復興させ、収入の増加し20歳で生家を再興した
生家の再興に成功すると、尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出る

二宮尊徳(小田原武家奉公人時代)
奉公先の小田原藩家老・服部家で、服部家の財政建て直しを頼まれる
成功し、小田原藩内で名前が知られるようになる
栃木県、真岡市等の経営も行い成果を上げる
倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻す施策も実行
方法は報徳仕法として他の範となる

二宮尊徳(桜町時代の活躍)
開墾した田畑は、租税負担が軽くなることに注目し、開墾を奨励
村人の仕事ぶりを見て回り、褒章制度導入で村人にやる気を喚起させた
村人らに反感を持たれた時、突然行方不明になり、村人達は尊徳の重要性を再認識

Viewing all articles
Browse latest Browse all 13377

Trending Articles