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毛利輝元は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名
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豊臣政権五大老の一人で、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された
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NHK「英雄達の選択より」
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毛利輝元(ネットより引用)
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毛利輝元の家督相続
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父が急死したため、11歳で家督を継ぐ
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若年のため、祖父毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した
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毛利輝元と織田家との戦い
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父元就の時代、尼子勝久や大友宗麟らとも戦って勝利し、九州や中国地方に勢力を拡大した
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毛利輝元は、石山本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行い信長と対立
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第二次木津川口の戦いで、鉄甲船を用いた織田軍に敗北を喫する
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羽柴秀吉は、毛利氏の忠臣の、備中高松城を攻撃する(備中高松城の戦い)
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毛利輝元は、総勢4万の軍勢を率い、秀吉と対峙する
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攻防戦の最中、秀吉は信長の死を知り、毛利家と和睦し城主清水宗治らは切腹
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毛利輝元の豊臣政権時代
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秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された
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朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣
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豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された
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毛利輝元と関ヶ原の戦い
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石田三成は、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する
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毛利輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾
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毛利家の吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行った
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関ヶ原本戦では、吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた
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家康は戦後、吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした
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吉川広家は、家康に毛利家の存続を訴え、毛利家は所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封となった
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毛利輝元の江戸時代
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関ヶ原の戦い後、輝元は剃髪し、嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった
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毛利輝元は、江戸に出向き謝罪し、長門国に萩城の築城を開始し居城とした
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大阪夏の陣では、出陣命令が出ず、毛利秀元隊が、本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った
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毛利輝元は、大坂の役の軍役や江戸城などの手伝普請でかさむ借財を解消すべく腐心した