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親鸞(浄土真宗の宗祖)
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宗祖法然を師と仰いで、自らが開宗する意志は無かった
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独自の寺院を持つ事はせず、各地に念仏道場を設けて教化する
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親鸞の念仏集団の隆盛が、浄土宗他派からの攻撃を受ける
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NHKテレビより
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親鸞(ネットより引用)
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親鸞、浄土宗へ入門から結婚
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法然に入門し、法然に高く評価されるようになる
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法然に『選択集』の書写命ぜられ、親鸞は法然から嘱望される人物として認められた
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九条兼実の娘である「玉日」と京都で結婚したという説が有力です
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親鸞は、妻との間に4男3女の7子をもうける
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法然の師弟・親鸞配流
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後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪
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法然・親鸞らは僧籍を剥奪され、法然は土佐、親鸞は新潟に配流される
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承久の乱で、法然・親鸞らを流罪にした後鳥羽上皇が、隠岐島に配流される
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流罪5年後、順徳天皇より、法然・親鸞に入洛の許可が下る
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赦免後の親鸞の動向の2説
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1つは、親鸞は京都にらず越後にとどまったとする説
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1つは、帰洛した後に関東に赴いたとする説
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親鸞東国布教
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関東の布教活動のため、信濃国の善光寺から常陸国に向かう
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笠間郡稲田郷に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う
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親鸞は、東国における布教活動を約20年間行う
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関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる
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親鸞京都へ帰京の理由
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主著『教行信証』他の著作物が、京都で通用するか検証・照合・修正するため
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35歳まで過ごした、望郷の念による?
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親鸞の京都での生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かった
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親鸞の入滅
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享年90入滅し、遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた
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頂骨と遺品の多くは、東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められた
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浄土真宗明治以後
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親鸞、明治天皇より「見真大師」の諡号を追贈される
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西本願寺・東本願寺・御影堂の宗祖親鸞の木像の前にあった額は、この諡号に基づく
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浄土真宗本願寺派は、親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除する
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真宗大谷派も「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した
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御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した