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今川義元、戦国大名で、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死
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婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたり、海道一の弓取りの異名
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「寄親・寄子制度」を設けて、軍事改革&領国統治し、今川家の最盛期を築き上げました
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バカ大名と思っていましたが、優れた戦国大名の一人だったのだと再認識しました
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NHK歴史(ヒストリア)より
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今川義元(ネットより引用)
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今川義元、内乱と鎮圧で家督相続
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今川氏親の五男として生まれる
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跡継ぎとして、同母兄の氏輝がいたために4歳で仏門に出された
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教育係を務めた、僧・太原雪斎と共に京都に上り学識を深めました
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長男今川氏輝が急死し、兄の彦五郎も死亡?跡目相続になりました
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当主継承は混迷化したが、義元は反対者と戦い、今川氏当主となり支配体制を整えた
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戦国時代の甲信越
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義元は、甲斐国の守護・武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ
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甲斐同盟の成立は、北条氏綱の怒りを買い、北条軍の侵攻を受け、河東を奪われてしまう
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織田信秀が侵攻してくるが、今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した
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西の織田氏・東の北条氏との争いは今川氏勝利の形で決着した
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今川義元領国拡大
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義元は、松平家の所領を領有し、三河国を直接支配下に取り込んだ
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織田信秀の庶長子織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還し、尾張進出への足掛かりを築く
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武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成し後顧の憂いを断った
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義元は、新領土三河の鎮圧および統治、さらには尾張以西への侵攻に力をそそぐ
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「桶狭間の戦い」
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那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始
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桶狭間山で休息中に、織田信長の攻撃を受け、愛刀・左文字の太刀ともども首級を奪われた
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今川義元死後
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義元の戦死で、息子氏真が後を継いだが、多くの国人領主の支持を失い自国領内も統治できず
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今川氏は衰退し、義元の死から9年後、氏真は信玄と家康によって駿河を追われ、今川家は滅亡
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駿河追放後、氏真は徳川家康に召し出されて江戸幕府に出仕した
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温情により500石を与えられ、今川氏は旗本(高家旗本)として幕臣に列した
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今川義元の人物・逸話
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桶狭間の戦いで織田信長に討たれた敗将として有名です
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信長を軽んじ、田楽狭間で安穏と休憩を取ったことが致命的でした
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輿に乗り移動していたという史実から、肥満、寸胴短足だったなど、評価を低くする結果となっています
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内政面では「今川仮名目録」の追加法を制定、商業保護、寄親寄子制度による家臣団の結束強化している
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桶狭間合戦当時の最盛期の義元の領国は、駿河・遠江・三河の3カ国69万石です