驚異の宣教師、フランシスコ、ザビエル
ナバラ王国に生まれ、カトリック教会の司祭、宣教師で、イエズス会の創設メンバーです
日本やインドで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導きました
NHK『歴史秘話』より
フランシスコ、ザビエル(ネットより引用)
ザビエル、生誕から司祭へ
ナバラ王国のハビエル城で生まれ、地方貴族の家出育ちました
ナバラ王国は、フランスとスペインの紛争地になりスペインに併合されました
パリへ留学し、聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学びました
ヴェネツィアの教会で、ザビエルは司祭に叙階されたました
ザビエル、インドへ
世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル領ゴアにザビエルを派遣しました
ザビエルは、イエズス会員とともにに、リスボンを出発し、6ケ月の長旅でゴアに到着しました
ゴアを拠点にインド各地で宣教し、マラッカ、モルッカ諸島に赴き宣教活動を続けました
マラッカで、鹿児島出身の日本人、アンジローにザビエルは出会いました
ザビエル、日本鹿児島へ
洗礼を受けたアジローらの日本人とともに、ゴアを出発し日本を目指しました
鹿児島に来着し、薩摩の守護大名島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました
日本人初のヨーロッパ留学生、鹿児島のベルナルドは、この時出会いました
貴久が、仏僧の助言を聞き、禁教に傾いたため、御門の宣教許可を目指し「京都」へ旅立ちました
ザビエル、山口、京都へ
守護大名大内義隆は、男色を罪とするキリスト教の教えに大内は怒り、許可しませんでした
岩国から海路で京都を目指し堺に上陸(豪商の日比屋了珪の支援)
ザビエルは、京都・山口・豊後での宣教
後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願しましたが、献上の品がなかったためか?拒まれました
大内義隆に再謁見し、義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めました
廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)
守護大名大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行いました
ザビエル再びインドへ
日本滞在が2年経過、ザビエルは一旦インドに戻ることを決意しました
日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させました
ザビエルは、ベルナルドとマテオを司祭の養成学校に入学させました
ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました
ザビエル中国を目指す
日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考えました
中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、ザビエルは、この世46歳で去りました
遺骸は石灰を詰めて納棺し、ゴアに移され、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許されました
日本に運ばれたザビエルの右腕
右腕下膊は、イエズス会総長の命令で切断され、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されていかs8
この右腕は、日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示されました
右腕上膊はマカオ、耳・毛はリスボン、歯はポルト、胸骨の一部は東京に分散して保存されています
ザビエルの日本人への印象
日本人は、最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう
日本人は、名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます
ザビエルが驚いたことは、キリスト教において重い罪とされていた同性愛が、認められている事でした
ザビエルは、「キリスト」を「大日」と呼ぶのを止め「デウス」というラテン語をそのまま用いました
キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれています
ナバラ王国に生まれ、カトリック教会の司祭、宣教師で、イエズス会の創設メンバーです
日本やインドで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導きました
NHK『歴史秘話』より
フランシスコ、ザビエル(ネットより引用)
ザビエル、生誕から司祭へ
ナバラ王国のハビエル城で生まれ、地方貴族の家出育ちました
ナバラ王国は、フランスとスペインの紛争地になりスペインに併合されました
パリへ留学し、聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学びました
ヴェネツィアの教会で、ザビエルは司祭に叙階されたました
ザビエル、インドへ
世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル領ゴアにザビエルを派遣しました
ザビエルは、イエズス会員とともにに、リスボンを出発し、6ケ月の長旅でゴアに到着しました
ゴアを拠点にインド各地で宣教し、マラッカ、モルッカ諸島に赴き宣教活動を続けました
マラッカで、鹿児島出身の日本人、アンジローにザビエルは出会いました
ザビエル、日本鹿児島へ
洗礼を受けたアジローらの日本人とともに、ゴアを出発し日本を目指しました
鹿児島に来着し、薩摩の守護大名島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました
日本人初のヨーロッパ留学生、鹿児島のベルナルドは、この時出会いました
貴久が、仏僧の助言を聞き、禁教に傾いたため、御門の宣教許可を目指し「京都」へ旅立ちました
ザビエル、山口、京都へ
守護大名大内義隆は、男色を罪とするキリスト教の教えに大内は怒り、許可しませんでした
岩国から海路で京都を目指し堺に上陸(豪商の日比屋了珪の支援)
ザビエルは、京都・山口・豊後での宣教
後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願しましたが、献上の品がなかったためか?拒まれました
大内義隆に再謁見し、義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めました
廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)
守護大名大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行いました
ザビエル再びインドへ
日本滞在が2年経過、ザビエルは一旦インドに戻ることを決意しました
日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させました
ザビエルは、ベルナルドとマテオを司祭の養成学校に入学させました
ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました
ザビエル中国を目指す
日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考えました
中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、ザビエルは、この世46歳で去りました
遺骸は石灰を詰めて納棺し、ゴアに移され、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許されました
日本に運ばれたザビエルの右腕
右腕下膊は、イエズス会総長の命令で切断され、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されていかs8
この右腕は、日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示されました
右腕上膊はマカオ、耳・毛はリスボン、歯はポルト、胸骨の一部は東京に分散して保存されています
ザビエルの日本人への印象
日本人は、最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう
日本人は、名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます
ザビエルが驚いたことは、キリスト教において重い罪とされていた同性愛が、認められている事でした
ザビエルは、「キリスト」を「大日」と呼ぶのを止め「デウス」というラテン語をそのまま用いました
キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれています