足利尊氏、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将、室町幕府の初代征夷大将軍
足利尊氏の性格は、細かいことに拘らず、自分の都合のいいように考える人物?
武家の不満を汲み取り、公家社会に反発し、まさに武家の棟梁として活躍した
武士からの信頼厚く、戦争に幾度となく負けても、尊氏を裏切る武将はいませんでした
NHK「智恵泉」より(井上二郎アナウサー交代です)
足利尊氏(ネットより引用)
足利尊氏誕生から鎌倉幕府滅亡迄
尊氏は、鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の次男として生まれました
後醍醐天皇が、倒幕で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、叛乱を宣言して、六波羅探題を滅ぼした
幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治の偏諱を受け、名を尊氏に改めました
勝利に貢献した尊氏の名声は、京都・全国的に高まりました
上野国の御家人新田義貞も叛乱が起こし、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ
後醍醐天皇による公家社会の創立&独裁体制への武家の批判
鎌倉方の残党が起こした乱を鎮圧したあとも、尊氏は鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せました
天皇との関係が悪化し、戦争になり敗れ九州に都落ち、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧
光明天皇を擁立して、征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた
後醍醐天皇は戦いに敗れ吉野に脱出し南朝を創始
幕府を開いてのち、尊氏は、南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた
後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天竜寺を建立している
室町幕府創始から晩年まで
後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始し、諸国に安国寺と利生塔の建立を命じた
新政権において、尊氏は政務を弟直義に任せ、自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として活躍
戦線での矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都にて死去した、享年54
墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺にあります
天皇に幾度か叛旗を翻したことにより
南朝を正当とする立場から、明治時代~昭和時代の間、尊氏は「逆賊」と位置付けられた
皇国史観が廃され南北朝が平等に評価されると、尊氏は肯定的に再評価されました
足利尊氏の性格は、細かいことに拘らず、自分の都合のいいように考える人物?
武家の不満を汲み取り、公家社会に反発し、まさに武家の棟梁として活躍した
武士からの信頼厚く、戦争に幾度となく負けても、尊氏を裏切る武将はいませんでした
NHK「智恵泉」より(井上二郎アナウサー交代です)
足利尊氏(ネットより引用)
足利尊氏誕生から鎌倉幕府滅亡迄
尊氏は、鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の次男として生まれました
後醍醐天皇が、倒幕で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、叛乱を宣言して、六波羅探題を滅ぼした
幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治の偏諱を受け、名を尊氏に改めました
勝利に貢献した尊氏の名声は、京都・全国的に高まりました
上野国の御家人新田義貞も叛乱が起こし、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ
後醍醐天皇による公家社会の創立&独裁体制への武家の批判
鎌倉方の残党が起こした乱を鎮圧したあとも、尊氏は鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せました
天皇との関係が悪化し、戦争になり敗れ九州に都落ち、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧
光明天皇を擁立して、征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた
後醍醐天皇は戦いに敗れ吉野に脱出し南朝を創始
幕府を開いてのち、尊氏は、南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた
後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天竜寺を建立している
室町幕府創始から晩年まで
後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始し、諸国に安国寺と利生塔の建立を命じた
新政権において、尊氏は政務を弟直義に任せ、自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として活躍
戦線での矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都にて死去した、享年54
墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺にあります
天皇に幾度か叛旗を翻したことにより
南朝を正当とする立場から、明治時代~昭和時代の間、尊氏は「逆賊」と位置付けられた
皇国史観が廃され南北朝が平等に評価されると、尊氏は肯定的に再評価されました