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御三家2代目(徳川光貞・徳川光圀)
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徳川光貞⇒紀州藩の第2代藩主、初代藩主・徳川頼宣の長男
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徳川光圀⇒常陸水戸藩の第2代藩主「水戸黄門」、初代藩主・徳川頼房の三男
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御三家二代目(ネットより引用)
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徳川光圀の概要
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藩主時代には、寺社改革や殉死の禁止、蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った
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『大日本史』修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動の文化事業を行った
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江戸時代後期から近代に、諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする黄門漫遊譚が確立
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徳川光圀藩主相続まで
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少年の頃の光圀は、素行悪く、司馬遷の『史記』に感銘を受け行いを改める
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父・頼房の死去で、光圀は「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせる
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幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる
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徳川光圀の藩主時代
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町奉行に水道設置を命じた(水戸下町は湿地帯で、住民は飲料水に不自由していた)
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領内の寺社改革実施し、寺社の破却・移転などを断行し、神仏分離を徹底させた
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明の遺臣・朱舜水を招く⇒儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となる
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江戸帰府に際し、鎌倉では名所・名跡を訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』『鎌倉日記』として纏めた
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建造した巨船快風丸を使い、蝦夷地探検を行う
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徳川光圀の隠居時代
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西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した
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楠木正成が自刃した湊川に、楠木正成を讃える墓を建造し、墓石に光圀の筆「嗚呼忠臣楠氏之墓」を刻む
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『救民妙薬』を編集し、薬草から種の製薬方法を記させた
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享年73歳で食道癌のため死去した
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徳川光圀の修史『大日本史』事業
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光圀藩主就任に伴い、修史事業を本格化した(史局員は20名)
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20年後、神武天皇から後醍醐天皇までの本紀の清書が終わり、「新撰紀伝」104巻が完成
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完成した「新撰紀伝」の詳細検討すると、重複や脱落があった
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光圀は生存中の本紀・列伝の完成を望み、史館員も増員し、総勢53人となった
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光圀の死の前後には、本紀67冊、后妃・皇子・皇女伝40冊、列伝5冊、計112冊が出来上がった
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彰考館では、修史(大日本史の編纂)の他にも、多くの書籍が編纂されていました