和宮親子内親王
和宮親子内親王⇒仁孝天皇の第八皇女、明治天皇の甥、14代将軍徳川家茂の正室
和宮(ネットより引用)
和宮親子内親王の降嫁迄
仁孝天皇の第八皇女として生まれた
日米通商条約での天皇不満により譲位を表明、幕府は攘夷の大名・公家を弾圧し関係険悪
朝幕関係を修復で、14代将軍徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が画策された
和宮の入輿が内定するが、朝廷は和宮の説得に難航
天皇は「攘夷体制に国を戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出す
天皇の決意、親族への圧力を示唆された和宮は降嫁を承諾する
和宮の降嫁
大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること等多くの条件が提示された
和宮の降嫁行列は、総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩が担当
和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられ厳重な警備が敷かれた
大奥での和宮
将軍家茂は、和宮降嫁に関して幕府に二心の無い旨の誓紙を書いた
和宮は、降嫁後、幕府の不満を朝廷に連絡
*天璋院が和宮に様々な無礼をはたらいた
*和宮と自分達に宛がわれた部屋は暗くて狭い
*大奥の女たちと折り合いが悪く、和宮が涙した等
和宮、家茂と今生の別れ
長州藩が御所を襲撃する禁門の変が起こり、家茂は長州征伐の命を下す
家茂は、自ら指揮を執っての長州征伐に乗り出す
家茂は、和宮の見送りを受けた後、品川から海路大阪へ向かった
家茂死後の和宮
長州征伐の途中、大坂城で将軍家茂は体調を崩し、食事も進まなくなった
家茂の病状が伝えられると和宮は医師3名を大坂に向かわせた
家茂の訃報が江戸に届くと、「継嗣は家茂の遺言通り?」と和宮の意向が問われた
和宮は、「幼い亀之助ではいかがなものか」と一橋慶喜を15代将軍へ推薦
和宮は落飾し、静寛院宮と改める、孝明天皇も崩御し、和宮は1年間で母・夫・兄を失う
明治維新後の和宮
徳川家の処分が終了すると、新政府は和宮に上洛を促した
和宮一向は、東海道を京都へと向かった京都に帰着した。
聖護院に入り、明治天皇と対面、聖護院の屋敷が栄御殿として改称される
和宮は念願だった仁孝天皇陵への参拝を果たした
東京に住まう天皇の勧奨もあり、和宮再び東京へ戻る
皇族や天璋院、徳川家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つ
和宮の死去
脚気を患い、箱根塔ノ沢温泉へ向かい療養中、32歳で死去
和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言で、墓所は港区の増上寺
和宮親子内親王⇒仁孝天皇の第八皇女、明治天皇の甥、14代将軍徳川家茂の正室
和宮(ネットより引用)
和宮親子内親王の降嫁迄
仁孝天皇の第八皇女として生まれた
日米通商条約での天皇不満により譲位を表明、幕府は攘夷の大名・公家を弾圧し関係険悪
朝幕関係を修復で、14代将軍徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が画策された
和宮の入輿が内定するが、朝廷は和宮の説得に難航
天皇は「攘夷体制に国を戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出す
天皇の決意、親族への圧力を示唆された和宮は降嫁を承諾する
和宮の降嫁
大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること等多くの条件が提示された
和宮の降嫁行列は、総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩が担当
和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられ厳重な警備が敷かれた
大奥での和宮
将軍家茂は、和宮降嫁に関して幕府に二心の無い旨の誓紙を書いた
和宮は、降嫁後、幕府の不満を朝廷に連絡
*天璋院が和宮に様々な無礼をはたらいた
*和宮と自分達に宛がわれた部屋は暗くて狭い
*大奥の女たちと折り合いが悪く、和宮が涙した等
和宮、家茂と今生の別れ
長州藩が御所を襲撃する禁門の変が起こり、家茂は長州征伐の命を下す
家茂は、自ら指揮を執っての長州征伐に乗り出す
家茂は、和宮の見送りを受けた後、品川から海路大阪へ向かった
家茂死後の和宮
長州征伐の途中、大坂城で将軍家茂は体調を崩し、食事も進まなくなった
家茂の病状が伝えられると和宮は医師3名を大坂に向かわせた
家茂の訃報が江戸に届くと、「継嗣は家茂の遺言通り?」と和宮の意向が問われた
和宮は、「幼い亀之助ではいかがなものか」と一橋慶喜を15代将軍へ推薦
和宮は落飾し、静寛院宮と改める、孝明天皇も崩御し、和宮は1年間で母・夫・兄を失う
明治維新後の和宮
徳川家の処分が終了すると、新政府は和宮に上洛を促した
和宮一向は、東海道を京都へと向かった京都に帰着した。
聖護院に入り、明治天皇と対面、聖護院の屋敷が栄御殿として改称される
和宮は念願だった仁孝天皇陵への参拝を果たした
東京に住まう天皇の勧奨もあり、和宮再び東京へ戻る
皇族や天璋院、徳川家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つ
和宮の死去
脚気を患い、箱根塔ノ沢温泉へ向かい療養中、32歳で死去
和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言で、墓所は港区の増上寺