江戸の文化人天璋院
天璋院(篤姫)⇒島津本家の養女、徳川家に嫁ぐ、13代将軍徳川家定御台所
天璋院(ネットより引用)
天璋院の輿入
薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、鹿児島を出立し江戸藩邸に入る
輿入れの列は、先頭が城内に到着しても最後尾は渋谷藩邸でした
家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることはありませんでした
天璋院の大奥
家定が急死し、斉彬までもが死去し、篤姫の結婚生活は、2年未満でした
家定の死を受け、篤姫は落飾し、天璋院と名乗る
家定の後継として、家定の従弟徳川家茂が14代将軍に就任
幕府は、公武合体政策を進め、朝廷から家茂の正室として皇女和宮が大奥へ入る
和宮、15代将軍・慶喜とも、天璋院は不仲でした?
徳川将軍家が存亡の危機では、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力
天璋院の明治維新後
東京千駄ヶ谷の自宅で、自由生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟らとも度々会っていました
徳川宗家邸で、脳溢血で倒れ49歳で死去した
天璋院の逸話
明治維新後は、自分の生活を切り詰め、元大奥関係者の就職・縁組に奔走
死後に確認された所持金は、現在の6万円ほどでした
明治維新後も、東京を離れず、箱根で闘病中の和宮を訪れたのが生涯唯一の旅行
天璋院の趣味
愛犬家でしたが、夫が犬嫌いだったので、大奥入り後は猫を飼いました
日本人として初めてミシンを扱った人物です
天璋院(篤姫)⇒島津本家の養女、徳川家に嫁ぐ、13代将軍徳川家定御台所
天璋院(ネットより引用)
天璋院の輿入
薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、鹿児島を出立し江戸藩邸に入る
輿入れの列は、先頭が城内に到着しても最後尾は渋谷藩邸でした
家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることはありませんでした
天璋院の大奥
家定が急死し、斉彬までもが死去し、篤姫の結婚生活は、2年未満でした
家定の死を受け、篤姫は落飾し、天璋院と名乗る
家定の後継として、家定の従弟徳川家茂が14代将軍に就任
幕府は、公武合体政策を進め、朝廷から家茂の正室として皇女和宮が大奥へ入る
和宮、15代将軍・慶喜とも、天璋院は不仲でした?
徳川将軍家が存亡の危機では、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力
天璋院の明治維新後
東京千駄ヶ谷の自宅で、自由生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟らとも度々会っていました
徳川宗家邸で、脳溢血で倒れ49歳で死去した
天璋院の逸話
明治維新後は、自分の生活を切り詰め、元大奥関係者の就職・縁組に奔走
死後に確認された所持金は、現在の6万円ほどでした
明治維新後も、東京を離れず、箱根で闘病中の和宮を訪れたのが生涯唯一の旅行
天璋院の趣味
愛犬家でしたが、夫が犬嫌いだったので、大奥入り後は猫を飼いました
日本人として初めてミシンを扱った人物です