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誰もが知っている吉良義央(上野介)

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江戸の文化人吉良義央

吉良義央⇒高家旗本、元禄赤穂事件の一方の当事者、『忠臣蔵』では敵役、吉良上野介と呼ばれる














吉良義央(ネットより引用)

吉良義央履歴
高家旗本吉良義冬の嫡男とし生まれる
父・義冬の死去により、28歳で家督を相続
高家の極官左近衛権少将に任官し、その後高家肝煎に就任した

高家とは
高家職に就くことのできる旗本は、室町時代の足利氏一門等「名門」の家柄で占められていた
吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも足利家の一族です
高家の創設の理由として、徳川家康が対朝廷政策を優位に運びたかった為です
徳川氏が武家の棟梁として「武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」事を示すためです

吉良義央、松の廊下の事件
赤穂藩主浅野長矩らが、東山天皇の勅使への御馳走人を命じられた
長矩は、勅使御馳走人を経験していたのだが、接待に手違いが生じた
松之大廊下において、浅野長矩は、吉良義央の背中と額を斬りつけ、義央は別室へ運ばれ治療された
浅野長矩は、即日切腹を命ぜられ、義央は高家肝煎職の御役御免願いを提出し受理される
義央は、屋敷替えを命じられ、又義央に近いと見られた人物は、罷免された
義央は隠居願いを提出し、即座に受理された
吉良家では、茶会にしばしば開催され、茶会の日が討ち入り日に決定しました

吉良義央に最期
赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り
義央自身は炭小屋に隠れていたが、武林隆重に見つけられ、斬り捨てられ、首を討たれた
義央の首は、泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられたあと、箱に詰めて同寺に預けられた

吉良義央の評価
忠臣蔵の「悪役」として有名な義央の評価は芳しくない
領地三河国では、黄金堤による治水事業等新田開拓や人柄から「名君」とされている
義央には、浅野長矩以外の御馳走人にも、いわゆるいじめを行っていたという逸話が多く残っている
上杉家では、出納帳には「上野介殿江」という項目が設けられ、吉良家の買掛金や普請は上杉家が持つのが恒例となっていた
赤穂浪士の討ち入りが朝廷に伝わった時、東山天皇の嬉々としていたと日記に記されている
茶人としての義央は、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人です

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